足尾神社あしおじんじゃ

 

別名・俗称

足尾さま、足尾山大権現

法人格/旧社格

法人/郷社

鎮座地

茨城県石岡市小屋1[Google Mapで表示する]

境内地

875.44坪(境外地)山林580坪

御祭神

くにのとこたちのみこと
国常立尊
おもだるのみこと
面足尊
かしこねのみこと
惶根尊

御由緒

神体、鏡。創建年代は、当社がしばしば火災にあい、記録類一切を失ったので明らかではない。海抜627米の足尾山上に祀られており、その「足尾」の名が万葉集に「安之保」と見え、常陸風土記にも「葦穂山」とある。風土記の記述に「その杜(もり)の中に石屋あり」とあることから、奈良朝以前に足尾の山に神が祭られていたものと見られる。
 口伝によれば、平安時代、第60代の主上、醍醐天皇が御足痛に悩ませられた時、霊夢にこの神を知られ、御祈願なさったところ、忽ち全快されたので、白紙に御足形を印し、「日本最初足尾神社」と勅額を下賜されたという。いまに、手形足形の御札を「足形の御影」として崇敬者に頒布しているのは、これに起因している。醍醐天皇御下賜の勅額は、野火のため焼失したので、寛正5年6月、御所へ申し出たところ、再び勅額と菊桐御紋入り嗽石が下賜された。江戸期には修験道の霊山として、、「足尾大権現」の名のもとに神仏習合の信仰があり、当社も山麓の足尾山大岩寺の支配下にあって、勅額再下賜の折の御立会、井関大蔵卿外4名の令旨書は、代々大岩寺の足尾山別当が伝えてきたが、明治初めの神仏分離の混乱期に散逸してしまった。
 近世以後、諸国を修行、行脚する修験者によって当社が足病消除に効験ありとする神徳が全国的に広められ、足の諸病に悩む崇敬者の参詣がにわかに多くなった。神の加護により全快した信者が、鉄・銅製等の草履を奉納する風習は、いまは靴・サンダルなどの奉納に形を変えているが、絶えることなく続いている。
 文治年間の始め、源義経の家臣となった常陸坊海尊が当山に籠り、杉室という地で修行して以来、修験道の道場として知られるようになった。現在も杉室に神窟があり、小祠が祀られている。例えば佐渡各地に「足尾(山)大権現」の碑が群立しているのは、祭神のうちの「面足命」が修験道で特に信奉した「第六天」に擬せられ、その信仰が全国的に広まっていた証左といえる。
 天保14年1月に社殿が焼失したため再建されたが、第二次大戦中、強風により倒壊したので、戦後修復した。明治6年4月、郷社に列格。昭和27年10月6日、宗教法人となった。明治42年、上曽の愛宕神社を合併したが、平成元年、愛宕神社を分離、別法人となった。当社を式内社、夷針神社とする説があり、全国式内社一覧に記載されている。
 なお、古歌に「足尾山」を詠む歌が多く、その一部をあげる。

つくばねにそがひに見ゆるあしほ山あしかるとがもさね見えなくに 東歌「万葉集」
さをしかのつのぐみそめしあしほ山ほにいでてなく秋は来にけり 藤原家隆「壬二集」
さくら花吹くや嵐のあしほ山そがひになびく峰の白雲 藤原家隆「壬二集」(詞書に「建保二年」とある)
あしほ山やまず心はつくばねのそがひにだにもみらくなきころ 藤原定家「拾遺愚草」
あしほ山花咲きぬれやつくばねのそがひにみれば雲ぞたなびく 藤原行家「夫木和歌抄」
行先にありしつくばねあしほ山かへりみるまで遠く来にけり 源勝賢「大江戸倭歌集」(「常陸国水戸に仰事かがふりて行く道にて」という詞書がある)

施設

本殿(奥宮) 六角形の台石に石祠
拝殿 トタン葺12坪
明神鳥居 3基(山麓、山腹、社前)
新・明神鳥居 (平成2年御大典記念、真壁町来栖秀太郎)
社名碑 2基(里宮・本宮)
燈籠 3基(天明元年8月、田中太郎兵衛、同、斎藤長左衛門、富田友右衛門、年代不詳、足立長)
水戸駅構内人力車組合新登講記念碑(昭和4年4月15日)
東道三十六丁供養塔(明和6年、当山別当大岩寺法印)

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